“水”あれこれ ・・・(2)
長尾 博之
“水”のお話を始めるに当たって、本稿の(1) 1)では、この地球の表面を覆う膨大な“水”の起源のお話と、水の七不思議なるお話を致しましたが、先ずは古人の“水”に対する考え方のご紹介から始めるべきではなかったかといささか反省しております。そこで、今号では、水という物について人はどのように捉えてきたかについて考え、次いで、紙面に余裕があれば、日本人の水に関する科学的な業績の1つをご紹介したいと思います。
1. 古代人の水への想い
まず、カナン(パレスチナおよび南シリアの古代の呼称)から出土した、楔形文字で書かれた世界最古の物語の中に、「水は万物のみなもとである」という一文があるそうです。この地方では、前16世紀~13世紀(後期青銅器時代) には、すでに楔形文字を利用した世界最古の実用的なアルファベットが発明されていたようですので、それよりも古い時代から、水はこのようにとらえられていたものと思われます。
前8世紀後半の(とされている)古代ギリシャの伝説上の天才詩人と言われるホメロスは、「万物を生んだ親は水の神オケアノスなり」と吟じました。その後、宇宙を構成する物質を追い求める哲人が現れました。西洋哲学の祖といわれる哲人ターレス(前546年没)です。ターレスがたどり着いた結論は、「水は万物の根源(アルケー)なり」というものでした。
これらは、水をすべての根源ととらえる、いわゆる“一元論”であるわけです。その後、万物の根源は水ではなく、“空気”だとか、いや“土”だ、いや“火”だ、とする別種の一元論が続出しましたが、やがて、これらを同時に認める多元論があらわれました。ギリシャの“四根”説 は「火、水、地、空気」を、また古代インドの“四大(しだい)”説は「地、水、火、風」を、さらに古代中国の“五行(ごぎょう)”説は「木、火、土、金、水」をそれぞれ万物の根源とする多元論ですが、このいずれにも“水”が入っています。
水の実体が明らかになったのは、時代もはるかに下って、18世紀に入ってからです。1784年にイギリスのキャベンディッシュが、「水から発生した気体を精製して燃やすと水になる」、したがって「水は元素ではない」と発表しました。さらに四半世紀後の1811年に、イタリアのアボガドロが唱えた分子説によって、それまでの多くの科学者達の業績が集大成され、「水はH2Oという組成をもつ物質である」ということが明らかになりました。
さらに現代にいたるまで、水の科学的側面については、実に多くのことが解明されましたが、そのことによって、水の重要性や有用性がいささかでも減ったわけではありません。
ここで、水の動的な特性と静的な特性を見事に表現した我が国は江戸時代(と思われる)の「水五訓」(または水五則)および「水五徳」という各五箇条の文言をご紹介します。日本人の感性の鋭さ、大きさがよく分かるような気がします。
水五訓(動)
- 自ら活動して他を動かしむるは水なり.
- 常に自己の進路を求めて止まざるは水なり.
- 障碍に逢い激して勢力を百倍し得るは水なり.
- 自ら清うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるの量あるは水なり.
- 洋々として大洋をみたし発しては蒸気となり雲となり霧と化し雨となり雪と変じ凝っては玲瓏たる鏡となりてしかもその本姓を失わざるは水なり.
水五徳(静)
- 淡々無味なれども真味なるは水なり.
- 境に従って自在に流れ清濁合わせて心悠々たるものは水なり.
- 常に低きにつき下地にありて万物を生育するものは水なり.
- 無事には無用に処して悔いず有事には百益をつくして功に驕らざるものは水なり.
- 大川となり大海となり雲霧雪となり形は万変すれどもその性失わざるものは水なり.
なお、残念ながら、これら五訓や五徳の作者も年代も分かっておりません。黒田如水の作とする説もあるようですが定かではありません。何方かご存じの方はいらっしゃいませんか。
2. 日本人の知恵
水溶液の代表である“お酒”は、出来上がってからも、特殊な乳酸菌のために腐りやすいので、大昔には、せっかく造っても腐ってしまって、飲めたものではない酒も少なくなかったはずです。勿論、煮沸すれば、菌の大半は死滅して、長期保存が効くようになるはずですが、酒を煮沸すれば、アルコールは飛散してしまう上に、品質が著しく劣化して、とても飲用に耐えなくなります。
この事は、日本酒ばかりではなく、ワインでもしばしば起こる現象で、特に、1850~1860年にかけて、フランス・ワインの“大腐造”という事件が発生しました。つまり、大量の腐ったワインが出来てしまったというわけです。このため、フランス人は記録的な被害を被ることになりました。この事態に対処すべく、当時、微生物学分野の著名な研究者であったパスツールが、早速その対策のための研究に着手し、しばらくしてその研究成果である殺菌法をワイン工場で実践し、以後、ワインの腐造は抑えられることになりました。その殺菌法の理論とは、ワインのようにアルコールが存在している場合には、煮沸などしなくても、わずか数分の間、50~60 ℃に保つだけで殺菌効果は十分というもので、これを低温殺菌法と名づけました。当時、そのような殺菌法の考え方など全く無かったものですから、考案者であるパスツールの名をそのまま付けて「Pasteurization」と命名され、また日本語訳では「低温殺菌法」として、一般に定着した用語となりました。
ところが真実は別のところにありました。低温殺菌法を開発したのは、実は日本人だったのです。それもパスツールに溯ること300年以上も前のことだったのです。そのことは以下の古文書に明記されていますので間違いありません。
室町時代末期に、奈良の興福寺の塔頭(たっちゅう)で書かれた「多聞院日記」(僧侶たちの酒造り作業日誌のようなもの)の中に、例えば、永禄三年(1560年)五月二十日の項に、「大きな桶から酒を汲み出して、それを大釜に入れて煮させ、火入れをした。その酒が冷めないうちにまた元の大桶に戻し、桶のふたのまわりを密閉して、この日の作業はおわった」などと書かれているのです。さらにはその日以降、酒が腐りやすい夏に向けて行われる様々な酒造の作業に対して、この「火入れ」の作業記録が頻繁に出てきています。また、この古文書全体の文章から、当時の火入れの温度は大体50~60 ℃で5~10分程度保ったと推定されています。今日の酒工場で行われている火入れとさほど変わりのない驚くべき方法です2)。
上記2)の著者の小泉氏の調査では、興福寺の僧侶たちが火入れをおこなっていた時代以前に、中国や朝鮮半島その他の国々で、このような低温殺菌を行っていた事実は全くなく、従ってこの方法は、世界の民族に先駆けて日本人が最初に行ったハイテクノロジーということになります。
レーウェンフックが微生物を発見する100年以上も前、また、パスツールが低温殺菌法を考案する300年以上も前に、日本人が既に「火入れ」と称する低温殺菌法を確立して実践していたことは、まさに驚嘆すべき知恵といえます。
もし、徳川幕府の鎖国政策なかりせば、1850年代のフランス・ワインの大腐造を防げたかもしれませんし、それよりも日本はとっくの昔にバイオテクノロジー大国として、世界に冠たる存在となっていたはずである、などと想像してみるのも面白いではありませんか。
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1) 長尾博之「水の話シリーズ1」日本原子力学会 水化学部会報 第2号(2008年8月)
2) 小泉武夫「つい披露したくなる酒と肴の話」小学館文庫(1998)